グッチー情報
by dxb83macng
S |
M |
T |
W |
T |
F |
S |
|
|
|
|
|
1
|
2
|
3
|
4
|
5
|
6
|
7
|
8
|
9
|
10
|
11
|
12
|
13
|
14
|
15
|
16
|
17
|
18
|
19
|
20
|
21
|
22
|
23
|
24
|
25
|
26
|
27
|
28
|
29
|
30
|
31
|
お気に入りブログ
以前の記事
カテゴリ
メモ帳
検索
その他のジャンル
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
| |
【海峡を越えて】埋もれた日韓歌謡史 第4部
(1)JODK
戦時下に消えゆく庶民の歌
「これで本日の放送は全部終了しました。ただいまの時刻は…時…分でございます。こちらは京城中央放送局です。JODK…」
1945(昭和20)年8月15日夜、アナウンサーの古賀登恵(とえ)はマイクに向かい、いつものようにこうしゃべるはずだった。ところが-。
「お昼に玉音放送があり、終戦を知りました。独立、解放を喜ぶ朝鮮の人たちが街中にあふれ、とても出社できる状況じゃない。夕方、将校さんが車で自宅まで迎えに来たのです」
騒乱を避け、ソウル市内にあった日本陸軍の官舎へ避難した。
JODK。そのコールサインも今はない。1926年11月、日本人がソウルに設立し、翌年2月から放送を始めた社団法人京城放送局(のちに朝鮮放送協会)が管轄する京城中央放送局の呼び出し符号だ。東京(JOAK)、大阪(JOBK)、名古屋(JOCK)に次ぐ4番目の放送局であることを示している。
OBらで編集した『JODK-朝鮮放送協会回想記』などによると、終戦の夜から翌日早朝にかけて放送したのは、朝鮮総督府の談話「終戦に当たりて」と「朝鮮民衆に訴える」だった。そして、9月9日に中継した総督府の降伏文書受諾式を最後に、放送業務は米軍のもとに置かれる。
◇
古賀は官舎に1週間避難したのち、着の身着のままで連絡船に乗り、引き揚げた。89歳のいまもJODKに在籍した当時のことはよく思い出すという。
「第一放送に入局した1940年ごろは、まだのんびりした時代でしたね」
第一放送は日本語で流す。ニュースや料理番組などを担当したほか、クラシック音楽や李朝の雅楽、宝塚歌劇の舞台中継などを放送した。スタジオには芸能人もよく訪れたという。
「佐野周二さんに藤山一郎さん、淡谷のり子さん…。藤山さんは番組に出演して流行歌か軍歌を歌っていましたよ」
藤山一郎といえば古賀政男作曲の「酒は涙か溜息か」や「丘を越えて」などの大ヒットで知られ、淡谷のり子は服部良一が作曲した「別れのブルース」をスタジオで歌った。朝鮮半島でも内地と同じ大衆歌謡がラジオから流れていた。
「もちろんアリランなど朝鮮民謡も流れましたよ。その後は次第に、歌謡曲でも甘ったるい歌は士気が下がる、と言われ、放送されなくなりました」
◇
JODKには朝鮮語の第二放送もあった。第一放送とは番組編成が異なり、スタジオが隣でも現場のスタッフ同士の交流は少なかったという。ニュースや子供番組、講座番組のほか大衆歌謡の番組もあった。
東亜日報の当時の番組欄をのぞくと、1934年12月16日に放送された「新民謡選作発表」という番組では「木浦(モッポ)の涙」のヒットで知られる李蘭影(イ・ナニョン)が郷土への思いをこめた新民謡を歌っている。
1938年2月9日には歌謡界の第一人者だった南仁樹(ナム・インス)の「哀愁の小夜曲」や張世貞(チャン・セジョン)の「連絡船は出て行く」などが流され、のちに作詞家・半夜月(パン・ヤウオル)として活躍する秦芳男(チン・バンナム)は「不孝者は泣きます」を1940年5月12日の放送で歌った。
韓国の大衆芸術を研究する李英美(イ・ヨンミ)は「JODKに関する研究は資料も少なく、ほとんどされていませんが、番組欄を見る限り当時の大衆歌謡を代表する音楽家が数多く出演しています。選曲も庶民の耳になじんだ曲が多い」と話す。
が、こうした雰囲気も長くは続かない。流行歌手だった白年雪(ペク・ニョンソル)が1942年ごろ、スタジオで2カ月間毎日歌ったのは、軍歌「息子の血書」だった。古賀もやがて“雄たけび調”でニュースを読むようになる。=敬称略
◇
韓国での大衆歌謡の普及に放送などが果たした役割は大きい。第4部ではメディアの側から過去と現在を展望する。
2009.7.6 08:26
産経新聞
(2)KBS「歌謡舞台」
伝統文化になった懐メロ紹介番組
戦前、戦中の朝鮮放送協会を引き継ぐ形で戦後設立されたKBS(韓国放送公社)。今では衛星放送を含めテレビ、ラジオに複数のチャンネルをもつ。2002年には韓流ブームのきっかけをつくったドラマ「冬のソナタ」も放映された。
そんなKBSに、年配者を中心とした大衆歌謡のファンが楽しみにするテレビ番組がある。毎週月曜の夜に放送される「歌謡舞台」。1985年11月のスタートだから歴史はほぼ四半世紀。懐メロを紹介するのはこの番組ぐらいだという。
「韓国の歌謡曲を埋もれさせない。そんな気概で番組をつくってきました」。そう話すのは70年代にヒット曲「楽しいアリラン」(歌・金相姫(キムサンヒ))などを作曲した金康燮(キムカンスプ)。KBS管弦楽団長・音楽顧問として、3年前まで「歌謡舞台」の選曲や構成などに携わっていた。
韓国の大衆歌謡は、50年代にポップス、60年代にはロック、70年代はフォークへと若者たちの熱狂が移りゆく中で、70年代後半にはほとんど聞かれなくなっていた。
そんなとき、81年に全斗煥(チョンドウファン)大統領が「伝統文化の創造的継承」を政策として掲げる。これを受けてKBSでも「昔の歌謡をよみがえらせる」方針で、公開収録の「歌謡舞台」が始まった。
◇
「他郷暮らし」「木浦(モッポ)の涙」…。スタート時は30年代から50年代の大衆歌謡の名曲を中心に構成され、ときにはその歌を吹き込んだ往年の人気歌手も出演した。「涙に濡れた豆満江」を熱唱する金貞九(キムジョング)らに感動するファンも多かったという。
金康燮は「当時40歳以上の世代にとって大衆歌謡は耳になじんでいました。なのに放送がなかった。だから『歌謡舞台』の登場を喜んでくれましたね。激動の時代を生きた人々は自身の半生と歌を重ね合わせる機会を得たのでしょう」と話す。
名物アナウンサー、金東建(キムドンゴン)の語り口も人気を呼び、番組は爆発的にヒットした。毎回、「哀しみ」「花」「母」などテーマが決められ、それにちなんだ曲が並ぶ。当初はベテラン歌手が出演していた。やがて歌唱力のある若い歌手たちが、自分の持ち歌のほかに昔の曲を歌うようになった。
誰にどの歌を歌わせるか。入念な話し合いの中心にいたのが金康燮だ。現在77歳。若いころに李蘭影(イナニョン)や高福壽(コボクス)ら大歌手のレコーディングにピアノ担当として立ち会ったこともある。
「私は昔の歌手やその雰囲気を直接知っていたから、番組のイメージをうまくリードできたと思います」
◇
懐メロ番組は日本でも「NHK歌謡コンサート」など数えるほどしかないが、KBSの「歌謡舞台」は放送1千回を超える長寿番組。
2005年には光復(解放)60周年で「国民歌手特集」を10回連続で行い、戦前の金貞九や南仁樹(ナムインス)ら、戦後の李美子(イミジヤ)や趙容弼(チョウヨンピル)らの名曲を紹介した。
気になるのは番組の今後。最近の視聴率は10%を割り込んでいるという。視聴者の世代交代も進む。大衆歌謡におそらく関心はない若い世代の登場。Kポップなど新しい音楽に流れるのは必然だろう。
だが金康燮は「心配ありませんよ。今の若者も年をとれば昔の歌謡曲の情緒を好むようになる。民族の歌なのだから。番組は続くでしょう。やめるべきではない」と強気だ。
もう一つ、番組を続ける理由がある。「歌謡舞台」はアメリカやドイツ、リビア、日本などで幾度も海外収録を行ってきたのだ。
今や国際的な評価も高い。またKBSの国際放送を通じて、海外に暮らす韓国人たちの郷愁を誘ってきた。
「世界各地に散らばる同胞たちの反響は大きい。その声は常に意識しておくべきでしょう」
金康燮の願いでもある。 =敬称略
2009.7.7 08:01
産経新聞
(3)コリアンメロディー
日本人へ大衆の思い伝えた
「玄界灘をはさんで、呼べばこたえが返ってくるような国、韓国の音楽を訪ねてお送りするコリアンメロディー」
エフエム愛知が昭和45(1970)年12月から平成2(1990)年3月まで、日曜深夜に
20年にわたって放送していた番組「コリアンメロディー」のオープニングフレーズである。紅白歌合戦の司会も務めた元NHKアナウンサー、谷田部敏夫が初代DJだった。
名古屋市在住の韓国大衆音楽研究家、朴燦鎬(パク・チャンホ)は懐かしそうに語る。「韓国の歌だけを取り上げる番組は珍しかったんです。よく聴いてましたよ」
エフエム愛知が民放初のFM局として開局したのが昭和44年。翌年、番組をスタートさせたのが初代社長、本田静雄だった。
本田は開局前に韓国・大邱(テグ)のFM局を視察した。そのとき、韓国歌謡など約20枚のLPレコードを寄贈される。そこで歌を通した日韓文化交流を思いついたという。
1回の放送で3曲を流した。歌詞は日本語に意訳する。現在の社長、本多立太郎は番組のディレクターを10年以上担当していた。「洋楽全盛の時代に異彩を放っていましたね。どこか懐かしいメロディーでした」
月に数通のリクエストがあり、熱心なファンがいる一方、「なぜ韓国の音楽を流すんだ」という抗議もあった。しかし本田の思いは揺るがなかった。
福岡のRKB毎日放送で名物ディレクターだった木村栄文は韓国、朝鮮をテーマに多くの映像ドキュメンタリーを手がけた。55年2月放映の「鳳仙花-近く遥かな歌声」は大衆歌謡を通じて日韓の近現代史を描き、その年の芸術祭大賞に輝いた。
「韓国歌謡の知識はほとんどなかったんです。ただ戦前、戦中を生き抜いてきた日韓の歌謡関係者がまだ健在で、彼らの生の声や歌を聴きながら、朝鮮の人たちの生活や哀(かな)しみを伝えたかった」と振り返る。
番組のテーマ曲「鳳仙花」は三・一独立運動(1919年)直後に創作された歌曲。日本の統治に対する抵抗歌として知られる。番組では「木浦(モッポ)の涙」や「離別」など韓国歌謡が新旧入り交じって紹介された。
ゲストも豪華だ。美空ひばりが古賀メロディーを語り、“韓国の美空ひばり”とも言われた実力派、李美子(イ・ミジャ)が「カスマプゲ」などを歌う。とりわけ孫牧人(ソン・モギン)作曲の「他郷暮らし」が効果的に使われていた。番組の中盤とエンディングで李美子が白のチマチョゴリ姿で歌い、芥川賞作家の李恢成もインタビュー中に歌う。
木村は「私が最も好きな韓国メロディーなんです」と笑顔を見せた。土地を失った農民の望郷の歌である。これこそ木村が番組で最も伝えたかったことなのかもしれない。
ちょうどそのころ、「演歌のルーツは韓国にあるのでは」という説がささやかれ始めた。それは木村が「鳳仙花-」をつくるきっかけの一つでもあった。
ただ、描き方によっては番組の根幹を揺るがしかねないテーマだ。そこでコメンテーターとして起用されたのが、戦後の日韓をまたいで活躍した韓国人の作曲家、吉屋潤(キル・オギュン)だった。
「全然違うと思う」。番組の中で吉屋潤はこう反論した。「韓国の演歌は日本が統治した時代に副産物として日本が韓国に残した遺産です。日本から発生したものであり、そこから離れて新しい形の生命力と表現方式をもった」。それぞれのオリジナリティーを信じていた。
吉屋潤が元妻のパティ・キムに書いた曲「離別」は多くの日本人歌手がカバーし、ソウル五輪のために書いたテーマソング「朝の国から」はキム・ヨンジャが歌った。国境を越えて思いを共有する名曲だった。
吉屋潤と交流があった韓国KBSの元日本語放送アナウンサー、本田雅嗣は「吉屋さんは“韓国の古賀政男”といってもおかしくない存在。
影響力も大きかった」と語る。大衆歌謡を通じた日韓交流に果たした功績は今も語り継がれている。=敬称略
2009.7.8 08:03
産経新聞
(4)オーケーレコード
“遺伝子”受け継ぎ韓流ブーム
戦前と戦中の朝鮮半島で最も勢いのあったレコード会社がテイチク系のオーケーレコードである。
日本のレコード会社の多くが支社や支店を構えていた。日本コロムビア、ビクター、ポリドール、テイチク、太平…。放送局の開局も相乗効果を生み、ラジオから流れる大衆歌謡が庶民の耳に切なく響いた時代。
中でもオーケーレコードは「木浦(モッポ)の涙」の李蘭影(イ・ナニョン)、「連絡船は出て行く」の張世貞(チャン・セジョン)、「涙に濡れた豆満江」の金貞九(キム・ジョング)、「哀愁の小夜曲(セレナーデ)」の南仁樹(ナム・インス)ら人気歌手を数多く抱え、専属作曲家も孫牧人(ソン・モギン)や金海松(キム・ヘソン)、朴是春(パク・シチュン)ら多士済々だった。
テイチクの傘下になる前、1933(昭和8)年のオーケーレコード創設にかかわったのが李哲(イ・チョル)と金星欽(キム・ソンフン)だ。2人は現在の延世大学の同期生で、大学で吹奏楽団を作るほどの音楽好きでもあった。娯楽が少なかった当時、卒業後は民族系のレコード会社を起こそうともくろんでいたという。
金星欽の長女で大阪に住む金英恵は「父は理数系なので技術面に興味があったんです。奈良にあったテイチク本社を一人で訪れ、レコード製作を学んだと聞きました。深夜、工場に忍び込んで産業スパイみたいなこともしたそうですよ」と話す。
オーケーレコードの原点は、奈良にあった。
◇
1936年、オーケーレコードは経営権をテイチクに譲ったが、社長だった李哲は新たな戦略を打ち出す。オーケーグランドショー(のち朝鮮楽劇団)である。
「春香伝」や「李秀一と沈順愛」「善花公主」など朝鮮の人たちになじみのある伝説をミュージカル化し、音楽は孫牧人や金海松、朴是春らが担当、李蘭影や張世貞、南仁樹、金貞九ら人気歌手が演じた。そこで、それぞれの持ち歌も歌わせた。
金英恵は「父は裏方に徹しました。性格がおとなしかったんです。一方で李哲、実は叔父なのですが、そのエンターテインメントに対する才能を高く評価していました」と語る。李哲は金星欽の妹と結婚したのだ。
朝鮮楽劇団はソウル公演だけでなく、各地を巡業し、人気を集めた。レコードの売り上げにもつながったのだろうか。いずれにせよオーケーレコードの大衆歌謡が半島全土に広まった。
その勢いに乗って、1939年には日本公演を果たす。「ハントウのショウボート朝鮮楽劇団、帝都訪問初公演」などと宣伝され、東京・浅草の花月劇場から公演をスタート、全国を巡った。朝鮮のヒットソングを歌ったのはオーケーレコードのトップスターたちだった。
◇
朝鮮楽劇団の総務部長として団長の李哲に迎えられた日本人がいた。佐藤邦夫という。
1940年ごろ、朝鮮半島で“国策映画”の宣伝に携わっていたとき、見いだされた。宝塚歌劇の作品を手がけるなどレビューやミュージカルの分野での経験は豊富だった。
生前の佐藤と親交があった元韓国日報記者の佐野良一は「楽劇団の巡業引率が佐藤さんの主な仕事でした。日本人の彼が先頭に立って各地の軍との交渉にあたったので興行をスムーズに行うことができたのです。なにより楽劇の魅力を知り尽くしていた」と話す。わずかな年月だが楽劇のスターたちと交流を深めた。
50年代から70年代にかけての韓国の芸能界には楽劇の出身者も多かった。戦前、戦中の日本を知る彼らが、歌謡曲を通じた日韓交流に貢献した。
佐藤は戦後、ビクター芸能に在籍し、築いた人脈を大いに活用する。「日韓が国交回復する前にフランク永井の韓国公演を実現させたり、張世貞やパティ・キム、吉屋潤(キル・オギュン)らによる『韓国歌謡名曲集』をリリースしたり、その仕事ぶりは精力的でした」と佐野。
今の韓流ブームの礎を築いた人物だった。=敬称略
2009.7.9 08:07
産経新聞
(5)SPレコードの時代
今も生き続ける哀愁の旋律、言葉
十数年前、在日韓国人ミュージシャンのパギやん(本名・趙博(チョウ・バク))は曾祖母の遺品の中に約80枚の古いSPレコードがあるのを知った。大阪市内の自宅を整理していた家族が見つけたのだという。
「一枚一枚が新聞紙に包まれていてね、米びつの中へ大切に保管されていたんです。ほとんどが植民地時代の朝鮮人歌手のものですよ。驚いたな」
昭和46年に88歳で亡くなった曾祖母。昔の大衆歌謡を聴いていたところを、その生前に見たことはなかったそうだ。
趙博が韓国の大衆歌謡に関心を持ち始めたのは昭和50年代、神戸市外大に通っていたころだ。別の大学の先輩が歌う「他郷暮らし」に感動し、神戸の大衆音楽研究者の論文を読み、カセットテープを集め始めた。
「民族の血なんでしょうか、ハマりましたね。ハルムイ(曾祖母の呼び名)がどんな思いで聴いていたのか、今思うと、そんなことも気になる」
大学院生だった昭和55年夏、大阪市内のライブハウスで「演歌でつづる」と題して歌った。「木浦(モツポ)の涙」「他郷暮らし」「ナグネソルム」…。日本の統治下に歌われた曲ばかり。政治色もある催しだったが、その新鮮さからか、盛り上がった。
「あの時代の歌を歌うことを批判する人たちも多いけれど、親や祖父母たちが親しんだ歌です。歌っちゃいけない理由はない。歌い継ごうと思った」
いまも時折、ライブで歌う。ハルムイを思い浮かべながら。
◇
いま、韓国で大衆歌謡が注目されることは少ない。そんな中で研究対象として取り組む若い研究者もいる。韓国学中央研究院韓国学大学院の李●煕(イ・ジュンヒ)だ。36歳。名門ソウル大学の大学院で東洋史を学んだが、いわゆるマニアな学問に転向した。
「中学生のときに興味を持ちました。『哀愁の小夜曲(セレナーデ)』を歌った南仁樹(ナム・インス)が特に好きでね。研究したいと思った理由は歴史や歌詞に間違いや歪曲(わいきょく)がひどかったからです」
主に1930年代から50年代の激動期に流行した大衆歌謡に関心を寄せてきた。SPレコードの時代だ。歌手や作曲家、作詞家の個別研究をはじめレコード産業の実態などを歴史的観点から掘り起こしてきた。
この夏、研究のため日本を訪れる。韓国文化体育観光部の支援を受けたプロジェクトで、テーマは「歌の朝鮮に向けたモダンボーイ・李哲(イ・チョル)の夢。オーケーレコードと朝鮮楽劇団」。
「オーケーレコードの創業者だった李哲はSP時代の韓国大衆歌謡の象徴的存在でした。その生涯と仕事の手がかりを日本で探ってみたい」
◇
韓国ではKポップが人気を集めている。ところが2004年に演歌調の「オモナ!(「あらまぁ」の意)」という大衆歌謡の歌が突如ヒットした。
歌ったのは張允貞(チャン・ユンジョン)。女性アイドルのようなルックスで、大衆歌謡ながら華やかな衣装やダンスを取り入れ、若者たちの絶大な支持を得た。
李●煕は「これを大衆歌謡の復活と評価する声もありますが、ちょっと疑問だな。歌に恨(ハン)の心がない。大衆歌謡の境界があいまいになってきたのは歌謡史の流れなのでしょうけれど…」と語る。
張允貞は翌年、NHK「歌謡コンサート」で「オモナ!」を熱唱した。
その後、日本の演歌歌手、林あさ美が日本語の歌詞で歌う。タイトルは「恋してオモナ」。
かつて古賀政男が作曲し、藤山一郎が歌った「酒は涙か溜息か」は蔡奎★(チェ・ギュヨプ)が朝鮮語で吹き込んだ。張世貞(チャン・セジョン)が歌った「連絡船は出て行く」は戦後、菅原都々子により日本語で歌われた…。
海峡を越えて、日韓で歌い継がれた大衆歌謡。そこには同じ庶民の哀愁や情感が生き続けている。
=敬称略
(おわり)
◇
「海峡を越えて」は今回で終了します。この連載は篠田丈晴が担当しました。
●=土へんに俊のつくり
★=火へんに華
2009.7.11 15:09
産経新聞
|
|