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「慈悲深い征服者と別人」
日本の終戦から66年を迎えるのを前に、日本軍と戦い、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥の副官として占領下の日本の憲法起草や国会運営にかかわったリチャード・ブラウン氏に往事の回想を聞いた。
同氏は敗戦直後の日本国民の様子をはじめ同元帥や吉田茂元首相との接触、そして憲法9条への微妙な懐疑など感慨をこめて語った。
米国防総省を1984年に引退したブラウン氏は94歳のいまも、ワシントン市内で夫人のマードさんとともに元気に暮らす。同氏は日米開戦後、米陸軍第32師団の将校としてニューギニア戦線のビアク島の激戦に参加した。43年末から同島に飛行場を造った日本軍との死闘だった。
「日本軍将兵は強く勇敢でした。戦場では投降する日本兵たちを部下が撃とうとするのを止めたこともあります」
同氏はこの作戦の前にオーストラリアで初めてダグラス・マッカーサー元帥に会った。日本軍に攻められ、フィリピンから撤退した元帥は将兵に演説した。
「元帥は鬼のようでした。憎い敵の日本軍将兵を一人残らず、殺せ、という感じで、終戦後の日本での『慈悲深い征服者』とは別人のイメージでした」
■ 憲法起草に関与「現在は9条改正必要」
ブラウン氏は、1945年冒頭からのフィリピンでの戦闘でマッカーサー元帥に再会する。マニラ奪回作戦で大尉として砲兵隊を指揮する同氏がある朝、幹線道路にいると、高級幕僚が来て、「いま元帥が近くにいて朝食を必要としているので、すぐ準備せよ」と命令した。
「部下たちがすぐに朝食を準備し、元帥に供しました。彼は前回と異なり、愛想がよく、私たち数人を招き、懇談した。たまたま私たちがウィスコンシン州兵出身とわかると、自分も同州生まれだといって、さらに友好的になりました」
戦後のブラウン氏は日本経由で一度、帰国する。敗戦から3カ月の元敵国に緊張して上陸すると、住民たちが歓迎するのに驚いた。
「佐世保から神戸まで移動する際、日本人たちがオハヨウ、オハヨウというのに意味を知らず、とまどった。米国旗を振る人たちが多いのも意外でした」
ブラウン氏は46年はじめに日本勤務を命じられ、GHQ(連合国軍総司令部)の民政局の立法府担当官となる。ホイットニー民政局長主導の日本憲法起草にもかかわり、「国会」の部分を担当したという。
「憲法草案を日本側に渡し、公布から施行までの過程にも関与した。内容については軍事力保持を禁じた9条が日本の外交の支えを奪いかねないと思いました。日本は賢い政策を展開していったけれども、現在は本格的な軍備のためには改正が必要というところまできていますね」
同氏はまもなく、フィリピンでの朝食を覚えていた元帥に呼ばれ、民政局所属ながら副官の任務をも命じられる。重要な訪問者を世話することも副官任務の一つとなった。
「ある時、世話をした米国務省関係の有力者が昼食の際、マッカーサー元帥は見えっ張りで、髪の薄い部分を必死で隠しているというのは本当か、と質問してきた。私は言を左右にしたが、なぜかその会話を元帥が知り、詳細を文書で報告せよと命令してきた。仕方なく報告すると、その有力者は24時間以内の日本退去を命じられました」
だがそんな元帥も日本国民が敵対心を抱いていないとわかると、日本人には非常に温かく同情的な心情を抱くようになった。元帥は同氏がホイットニー局長の秘書だったマードさんに恋をして、婚約したときは喜んで高級なウイスキー2本を贈ってくれたという。
同氏は49年に米国に戻るまで民政局で日本の国会や内閣の動きをモニターする役を果たした。首相の吉田茂氏とも頻繁に会った。
「元帥からの書簡を届けるのも私の任務でした。吉田氏の服装はちょうネクタイや山高帽など英国の首相チャーチルをまねているようにみえました」
こんな日本体験をブラウン氏は総括した。
「日本の歴史的再生に立ち会えたことは幸運でした。その後の日米関係も本当にこれでよかったと思う。多くの日本人とも親しくなり、その後も何回も訪日した。だから今回の大震災の被害には心を痛めました」(ワシントン 古森義久)
【ワシントン=古森義久】
2011年8月14日(日)08:00
産經新聞
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