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【海峡を越えて】埋もれた日韓歌謡史
(1) 民族の哀しみ…抵抗歌謡
ソウルの繁華街・明洞(ミョンドン)の雑居ビルに、韓国歌謡作家協会はある。近代的なオフィスをイメージしていただけに、意外だった。これも韓国の大衆歌謡の衰退を表すシーンかもしれない。
「懐かしい話ですね」。名誉会長の半夜月(パンヤウォル)は91歳。昭和12(1937)年に歌手・秦芳男(チンバンナム)としてデビューし、その後、作詞家に転じて韓国の歌謡界に70年も君臨してきた“ゴッドファーザー”である。
「韓国大衆歌謡の話を植民地時代から語れるのはもう私ぐらいかな。みんな死んでしまいました」。耳が不自由なためか、笑顔だが怒鳴るような大声だ。
戦前、朝鮮半島には日本の大手レコード会社が進出した。その販売・流通の過程でリズムやメロディーが日本的なものに近づいていったともいわれる。玄界灘をはさんで日韓の大衆歌謡は影響を与え合った。
◇
今夏、ソウル近郊の寺で第2回「韓国歌謡史の先駆者56人合同追慕祭」が営まれた。かつて韓国歌謡界で活躍した作曲家、作詞家、歌手らの位牌(いはい)や写真を飾り、業績を懐かしんだ。
呼びかけ人は半夜月。「韓国の歌謡史は1世紀。南北分断、6・25動乱(朝鮮戦争)という激動の歴史とともにある。先輩たちの業績は忘れ去られるべきではない」
韓国では現在、KBS放送の歌番組「歌謡舞台」で先輩たちが残した曲を若手歌手たちが歌っている。戦前から“エレジーの女王”と呼ばれた李蘭影(イナニョン)の「木浦(モッポ)の涙」や“歌謡皇帝”と称された南仁樹(ナムインス)の「哀愁小夜曲」…。歌い継がれている曲は少なくない。
ただし往年の韓国歌謡を取り上げるのはこの番組ぐらいという。「いつまで続くか」。半夜月はそれを憂う。「追慕祭は私の最後の役目だと考えています」
◇
韓国歌謡史の先駆者たちの人生は悲喜こもごもだ。戦前、「木浦の涙」を作曲し、戦後はヒット曲「カスバの女」を書いた久我山明は日本での活躍で知られているが、本名は孫牧人(ソンモギン)。韓国人である。
また、日本で死亡したとされる作曲家、金駿泳(キムジュンヨン)の人生は謎めいている。「朝比奈昇」の名で戦前は松竹映画や松竹少女歌劇団の音楽監督としても活躍したが、戦後の足どりはほとんどわかっていない。
半夜月によれば、韓国歌謡は日本統治下、朝鮮総督府の検閲を受け、ときには歌そのものが差し止められることもあった。
「国を奪われた私たちは民族の哀(かな)しみを歌に込めたのです。だから、私たちの歌は抵抗歌謡だとも言えるでしょう」=敬称略
□
激動の歴史を歩んだ韓国大衆歌謡。日本の演歌の源流ともどうかかわるのか。埋もれた歴史に光を当てる。
2008.10.31 08:38
産経新聞
(2) 南北分断 改詞にこめた真実
昭和14(1939)年秋、新人歌手の秦芳男(チンバンナム)、後の作詞家、半夜月(パンヤウオル)は兵庫県西宮市の太平レコードのスタジオにいた。初のレコーディング。その中の一曲「不孝者は泣きます」を歌おうとしたとき、「母死す」の電報が届く。
♪呼んだとて泣いたとて
帰らぬ母さんを…
歌の内容がそのままわが身に起こったのだ。(朴燦鎬(パクチゃンホ)著『韓国歌謡史』より)
青年は泣かんばかりに絶唱した。「すぐに帰りたかった。今は飛行機もあるが、当時は無理。親不孝者です」
日本のレコード会社の多くが朝鮮半島に支店を構えていた。現地録音もあったが、日本まで来ることも多く、そこにこんな悲哀もあった。
# #
南北分断、朝鮮戦争…、激動の時代に半夜月は作詞の世界へ。地位を確立したのは1954年の「断腸のミアリ峠」。そのヒットもまた、大きな代償を背負っていた。
「激化する戦争で妻や5歳の娘と離ればなれになり、ようやく南に逃れてきた妻のかたわらに娘はいなかった」
目が少し潤んで見えた。栄養失調で死んだという。
「妻はソウルへつながるミアリ峠付近に娘を埋めたというのですが、見つからなかった。この歌は娘の命と引き換えに得たのかもしれない」
膨大な数の歌詞を書き、国から文化勲章を受けた半夜月だが、まな娘を失った記憶をひきずり続けてきた。
# #
改詞。半夜月はこれも数多く手がけた。南北分断後、越北した作家、作詞家らによる歌詞を書き換えたのである。韓国では1965年3月から1988年4月まで越北作家の歌を演奏することが禁じられていたという。国から書き換えの指示があったのか。
「決して国策じゃない。むしろ韓国に残った作曲家たちが歌詞の書き換えを依頼してきたのです。自分たちの曲を残してほしいと。共感して積極的に取り組みましたよ」
オリジナリティーが損なわれるとの批判もあったが、「オリジナルを生かしながら作り替えるのは、最初から作るより大変な作業でした」。
越北作家の歌詞を書き換えたことで思想的に疑われたこともあった。それも南北分断の哀(かな)しい歴史だ。=敬称略
2008.11.2 08:28
産経新聞
(3) “韓国の古賀政男”の悲哀
孫牧人(ソンモギン)。エト邦枝らが歌ったヒット曲「カスバの女」を作曲した久我山明のことである。“韓国の古賀政男”とも呼ばれ、戦前は「他郷暮らし」(歌・高福壽(コボクス))、「木浦(モツポ)の涙」(歌・李蘭影(イナニョン))という韓国大衆歌謡史上、不滅の名曲を残している。
テイチク系のオーケーレコードの専属作曲家として戦前から“日韓”で活躍し、戦後の一時期は日本を拠点に作曲活動をした。
昭和32(1957)年に帰国。韓国人として初めて日本の著作権制度に基づく印税を手にし、1964年、韓国でも著作権意識を根付かせるため韓国音楽著作権協会を発足させ、初代会長に就いた。
◆◇◆
1999年1月、孫牧人は東京を旅行中に病気で亡くなる。85歳だった。
亡くなる前日、テイチク専属の作曲家、村沢良介と電話で食事の約束をしていた。戦後、日本で活躍していたころから交流があり、互いに訪日、訪韓するたびに会うほど親密な仲だった。村沢の作曲家としてのデビュー曲「愛ちゃんはお嫁に」(歌・鈴木三重子、昭和31年)を編曲したのが孫牧人である。
村沢はテイチク専属歌手として昭和21年にデビュー。あるとき、当時の社長から韓国人歌手のレコード十数枚を渡された。「これを聴いて勉強しろということでした。
彼らが表現する“恨(ハン)(哀(かな)しみ)”に圧倒されましたね。悔しいけどまねできない。作曲の道へ移った私の創作活動に大きな影響を及ぼした」
孫牧人は生前、村沢にこう言った。「韓国に来て作曲しなよ。絶対に売れるよ」
その真意がわかるようになったのは少したってからだ。「韓国人歌手の歌声が身に染みついていたのでしょう。私の曲に彼らの歌心を感じ取ってくれたんです」
◆◇◆
昭和40年、日韓基本条約で両国の国交が正常化する。孫牧人は大衆歌謡を通じて、文化交流の担い手になれる存在だった。
しかし、韓国では独立後、最近まで、戦前・戦中の大衆歌謡や日本の演歌が「倭色」(日本的)と一部で敬遠されていた。文化の橋渡しを担ってきた本人にとっては、不本意だったに違いない。=敬称略
2008.11.9 08:23
産経新聞
(4) 演歌のルーツはどこに?
昭和6(1931)年、古賀政男作曲の「酒は涙か溜息か」と「丘を越えて」を藤山一郎が歌い、日本で大ヒットした。翌年、歌詞が訳され、蔡奎●(チュ・ギュヨプ)が吹き込み、韓国でもよく売れた。
かつての韓国で日本の歌はどんな思いで聞かれたのか。韓国大衆歌謡と日本の演歌は音階、メロディーがよく似ている。洋楽の「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」の7音階を「ヒ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナ」と数え、「ファ」と「シ」、つまり「ヨ」「ナ」を抜いた「ヨナ抜き」音階をともに基本としており、詠嘆調の感情表現をもつ。
だから演歌のルーツは韓国にあるとか、日本のレコード資本が朝鮮半島に進出していたために日本のメロディーが韓国の大衆歌謡に根付いたとか、その源流をめぐる議論がしばしば起こる。
韓国源流説の根拠は古賀メロディー。古賀が少年期を韓国で過ごしたことが影響を与えたという考え方だ。
◇
作詞家の半夜月(パン・ヤウォル)は源流論争を「つまらない」と吐き捨てた。「影響を受け合ってきたのです。韓国人と日本人の情緒は似ている。韓国人は日本の歌を上手に歌うし、その逆も。歌いやすいのです」
古賀は大正元(1912)年から11年までの少年期を韓国で過ごした。地元の伝統的な音楽を聴く機会も数多くあっただろう。
若いころに会った古賀の印象から半夜月は、「古賀先生も韓国の音からそれなりの影響を受け、帰国後の創作につながったのでしょうね。もう一歩進めて言えば古賀先生は韓国人と似たような情緒をもっていた…」。
◇
韓国学中央研究院韓国学大学院の李★煕(イ・ジュンヒ)氏(韓国大衆音楽史)は日韓の大衆歌謡が互いに影響を受け合ったことは認めつつ、時代背景に注目する。「日本は帝国主義の時代。朝鮮半島をはじめ台湾、満州はひとつの枠組みの中にあった。
日本に影響を与えた部分もあるのでしょうが、あらゆる面で日本からの影響は計り知れなかった」
一方で、作曲家の村沢良介のように、韓国人歌手の歌唱を徹底的に学び、創作に大きな影響を受けたと感じている人もいる。「恨(ハン)の表現は、聞き込むほどにそのすさまじさを思い知ります」=敬称略
●=火へんに華
★=土へんに俊のつくり
2008.11.16 09:07
産経新聞
(5) 吹込台帳が語る舞台裏
大阪府吹田市の国立民族学博物館(民博)。日本コロムビア(現・コロムビアミュージックエンタテインメント)が戦前、戦中に朝鮮半島や台湾、中国に向けて作ったSPレコードの音源である金属原盤6800枚を保管する。
「さすがに原盤から録った音は違う」。在日韓国人二世で韓国大衆音楽研究家の朴燦鎬(パクチャンホ)はその複製テープを試聴し感嘆の声を上げた。1934(昭和9)年にヒットした金駿泳(キムジュンヨン)作曲の「處女総角」。韓国大衆歌謡のレコードを聴いて育った朴燦鎬にとっては聴き慣れた曲だった。
コロムビアから寄贈されて四半世紀。5年前に民博准教授の福岡正太らが光を当てた。「私はインドネシアの民族音楽が専門ですが、資料の希少価値はわかっていた」
コロムビア社内に残る資料の分析・照合に時間を費やし、今年3月、「朝鮮編」のデータベースが完成した。
* *
韓国学中央研究院韓国学大学院の李●熙(イジュンヒ)(韓国大衆音楽史)は当時の吹込台帳などが残っていたことに驚いた。「日本とソウルの支社の間で交わされた文書のやりとりから会社の思惑も見えます」
東京・原宿のテイチクエンタテインメント本社の倉庫でも昭和11年2月の吹込報告書が見つかった。テイチク系のオーケーレコード専属歌手、李蘭影(イナニョン)の名があったが、「歌手の名前、日本名に変更致すかもしれません」と書き添えられていた。「岡蘭子」が日本名である。
* *
東京・南麻布のコロムビアミュージックエンタテインメント。吹込台帳は整理棚にあった。昭和18年のものらしい。「作曲・金駿泳、編曲・服部良一」という2人の名前が並ぶ楽曲が目に入った。服部良一は「蘇州夜曲」「青い山脈」などで知られる有名な作曲家だが、金駿泳とはどんな人物だったのか。
日本名「朝比奈昇」。戦前は松竹映画などの音楽を手がけたが、昭和36年に日本で死亡したという以外、戦後の足どりはほとんど不明だ。
海峡を越えて、大衆歌謡の舞台裏でどんな歴史が刻まれてきたのだろうか。
=敬称略(第一部おわり)
=この連載は篠田丈晴が担当しました。
●=俊のにんべんを土へんに
2008.11.23 08:32
産経新聞
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